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川西の整体なら楽掌 | 院長挨拶

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院長挨拶

代表メッセージ

MESSAGE

施術に対する熱意や学ぶ姿勢を忘れることなく、患者様一人ひとりのお悩みに本気で応える施術を行うことで、多くの方からご信頼いただいてきた実績がございます。国家資格を有する院長自らがマンツーマンで施術を行い、慢性腰痛にお悩みの方に寄り添って参りました。プロからの推薦もあり、現在多くの患者様からご好評いただいています。本気で体を改善したい、という想いに応えます。

院長

𠮷田 彰寛

𠮷田 彰寛

プロフィール
高齢者・障害者施設、様々な職種にて痛みのある方に関わり痛みの辛さを理解している。
延べ1万件以上の改善、施術経験が有り、あらゆる疾患の施術経験を持つ。
腰痛改善率は実に91.9%を誇る。
一人でも多くの患者様が日々痛みなく笑顔になれるよう日夜治療技術の向上に努めている。重度の障がいを持つ子どもの父。
出身地
長崎県長崎市
誕生日
1986年1月6日2時22分 山羊座、寅年
血液型
A型
特徴
見た目の雰囲気がやわらかく、話しかけやすい。真面目に真摯に向き合うがたまに冗談もいったりフレンドリーな感じがある。
こだわりが強く探究心と集中力がある。
好きなこと
体の勉強、アニメ、漫画、映画、ゲーム、音楽、ギター
好きな食べ物・飲み物
餡子(粒あん)、甘い物全般、カニ、魚貝類全般、たこ焼き、ラーメン(コッテリ派)、焼き鳥、寿司、蕎麦ぼうろ、炭酸水、日本酒
好きなスポーツ
バスケ、陸上、Eスポーツ(格闘ゲーム)
最近うれしかったこと
患者様が痛みなくできることが増えて喜びの声、お気持ちの差し入れを頂いたこと
最近はまっていること
7歳の息子にこちょこちょすること、川西の街を知ること
地域の痛みや姿勢の見た目で悩まれている患者様を一人でも多く救う。そして健康で痛みや姿勢の見た目で悩まれている患者様を1人でも多く救い社会貢献していく。みんなが幸せでWINWINの関係になれる院にしていく。
【院長の資格】
介護福祉士
MSMメソッド整体(運動療法)
ボディセラピー
耳ツボセラピー
筋膜リリース

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私の人生の歩み

整体院 楽掌のHPを見て頂きまして本当に有難う御座います

あなたの大切なお体を診させて頂いている私がどのような人間なのか、どんな想いで毎回施術をさせて頂いているのか。来院前に不安を少しでもなくして安心して受けて頂く為に、私の人生のストーリーをここでお話しさせて頂ければと思います。

出生〜幼少期

私は昭和61年1月6日2時22分 カステラや観光地としても有名な長崎県長崎市にて生まれました。

海と山に囲まれ、とても自然豊かで異国情緒あふれる魅力的な観光地が多い場所です。

家族構成は5人家族で、父、母、4つ上の姉、1つ上の姉の3人姉弟の末っ子長男です。

末っ子らしく甘えん坊で、愛嬌があって笑わせたり、人の気を引きたいところがあったり、自由で好奇心旺盛だったので、良い意味でも悪い意味でも目が離せない子供だったそうです。また、姉弟の中で唯一の男ということで、しっかりしないといけないというプライドもあったと思います。人見知りをしない性格で誰とでもすぐ打ち解けられたり、一度行った場所や道をすぐに覚えられたり、幽霊が見えるなど変わった特技もありました。

誰とでも打ち解けやすい印象的な出来事として、5歳の時に父の仕事の関係で、福岡から千葉に引っ越しする時に電車で移動したのですが、その時隣の席に座っていたお兄さんに私から話しかけて仲良くなり、東京に着くまでの間中ずっと話をしました。お別れの時になると、仲良くなったしるしとして、仮面ライダーの人形を頂きました。本当はご親戚に渡す物だったそうなのですが、当時とてもうれしかったこと、よく覚えています。

目立つことが大好きだった小学校の私

目立ちたい好かれたいなど、今思えば承認欲求の塊だった小学生(笑)学校で学級委員長や住んでいた団地の小学生部のリーダーなど率先してやり、家の近所や小学校で「あっくんだ~」と、学年関係なくよく声をかけられていました。その影響か、1つ上の姉が、周りから名前ではあまり呼ばれず、“あっくんのお姉ちゃん”と言われていたそうで(同級生にも)、大人になってから、その時嫌だったことを伝えられました。また、無茶なことにも挑戦して、心配をかけるという意味で目立つこともありました。子どもの頃は小児喘息が酷く、特に低学年の時は年に2か月くらい入院をしていました。病院がとても身近になったのもあり、その頃から医療業界に興味を持っていたと思います。高学年の頃には少しずつ体力もつくようになってきて、スラムダンクの影響からバスケに夢中になりましたが、食べることが好きだったので結構ぽっちゃりしていました(笑)。

人生のターニングポイントとなった小学校6年生

今でも忘れられないですが、夜に突然父が脳梗塞で倒れたという電話がかかってきました。

家族みんなパニックで、母は急いで病院に向かい、私は姉達と家で眠れない夜を過ごした記憶があります。

幸いにも命は無事でしたが、後遺症で左半身不随になり、そこから家族や自分にも大きな変化がありました。母は父の入院やリハビリなどに付きっきりになっていたので、一緒に食事を取ったり遊びに出かけることができなくなってしまいました。

お見舞いに行った時に苦しんでいる父の姿を見る度、何も力になれない自分がとても悔しかったです。そこから、“医療や体に関わる仕事で、困っている人を助けられるような人になりたい”と思うようになっていきました。

中高学校時代

中学校に入ってからも積極的に学級委員長、生徒会などに立候補し、リーダーを率先してやっていました。父が倒れてからというもの、体のことで周りに心配をかけてはいけないと思うようになり、体を鍛え、入学当初は1500m走でクラスで1番遅かったのが、1年後にはクラスで1番早くなるくらいの体力をつけることができました。中学2年生の夏になると、父が職場への通勤が難しくなったことから、兵庫県西宮市に引っ越しました。転校後の中学校では、転校初日に壮大にスベる自己紹介をしてしまったり、関西のノリが分かなかったからか?、早々に目をつけられていじめに遭うなど、今までと一転、結構大変な中学生後半を過ごしました。高校は県立西宮高等学校に進み、スポーツや勉強に取り組み精進した・・・と言いたいところですが、目立ちたい精神で、バンドを組んだりゲームセンターに通うようになりました。やるからには徹底的にやって結果を出したいので、バンドのライブはもちろん、個人でも路上ライブをしたり、ゲームでは格闘ゲームで全国大会に進出するほどのやり込みようでした。

そして、進路を決める頃になると、“医者になって、父のように困っている人を救いたい”という気持ちで、医学の道に進もうと学業に力を入れていきました。ただ、当時は気持ちだけであり志ではなかったと思います。

浪人〜社会人時代(前半)

志望校の医学部の受験に失敗し、浪人をして再挑戦を決めるも、些細なことで体調を崩し、そこから鬱になってしまい、受験できる心境にはなれないまま、ただひたすら家に篭ってゲームをする生活になりました。この時期は親には本当に心配をかけました。

そんな引き篭もりから復帰するきっかけは成人式でした。

親に『一生に一回なんだから行きなさい』と言われ、本当に嫌々いきましたが、そこで中高の学友の頑張っている姿や声を聞いたおかげで、また外に出て何かに挑戦してみようかという気持ちになれました。

その後、携帯販売の接客業から始まり、飲食、IT系、サービス業など、興味を持った内容の仕事を片っ端から挑戦し、時には掛け持ちで我武者羅に働きました。仕事は楽しく精神的に充実はしていましたが、かなり無茶をしていたので、体はボロボロで腰や肩など全身不調だらけでした。

しばらくした頃、姉の職場の方から『重度障害者支援のNPO法人で働かないか』というお誘いがあり、介護士として4年間働きました。

そこでは介護だけでなく、障害がある人が地域で楽しく生活できるようになる為の社会運動にも携わりました。

介護職のリーダーを任せて頂いたり、モンゴルに1か月ほど滞在し、制度を作る社会運動に参加させて頂いたり、たくさんの方に出会い、経験をさせて頂きました。人を助け、社会を変えるという活動はとても刺激的で勉強になる職場でした。

〜現在

20代後半になり、ご縁のあった方と共に高齢者の憩いの場や活躍の場を増やす事業を立ち上げました。前職の時のように人を助けることで社会を変えたいという気持ちで取り組んでいたものの、進めていくうちに自分がやりたい仕事とは違ったことに気付き、撤退に至りました。

その後結婚し、子どもが生まれたこともあり、これから自分がどんな仕事がしていきたいのかをさらに深く考えるようになり、模索を重ね、【人を幸せにして喜んでもらえること】、【病気で苦しんだ経験があるから、人の健康という重要な部分に直接関わること】、【一生続けてもいいと思う好きなこと】が、自分の中で譲れない点だということがわかりました。

それが当てはまり、出会ったのがマッサージの仕事でした。

マッサージといっても、治療系の強い整骨院の系列店舗だったので、教えて頂いた手技はリラクゼーションでもありパフォーマンスをあげる手技も多かったです。

そこでは、一般の方からプロのアスリート、タカラジェンヌなど、幅広い層の方々のお体を施術させて頂きました。

ある時、杖をついて来られていたお婆ちゃんが杖を忘れて帰ったことで、体を良くすることの楽しさや可能性を感じました。ただ、次来られた時には状態が戻っていたことなどから、“癒しではなく根本的に治療をしたい!”とその時、強く思いました。

その後、根本治療を謳う整体院で副院長を務めました。

お陰様でたくさんの患者様から指名を頂けるようになっていきましたが、体をよくすることはできていたものの、その後通院頻度が減ってもずっとメンテナンスに来ないといけなかったり、半年、一年後に来る患者様はまた痛みが出ていて再度頻繁に通院することになってしまっていました。

それは自分がしたいと思っていた根本的な治療とは違うと感じ、 “治すことが無理だと言われたものでも、私は絶対に諦めずに患者様を救おう!”と改めて誓った私は、その後狂ったように自己学習し始めました。あらゆるセミナーを片っ端から受けあさり、何百万もお金を投資して、とうとう医師や治療家が無理だと言ってることでも改善できるスキルを手にすると同時に、ついに決定的とも言える痛み治療の根源に辿り着いたのです。それは...

「痛みのあるところに原因はないということ」

治療院や施術者、場所に限らず本当の意味で治すことできる今の技術の形が出来てきました。

それからの私の施術は大きく変わり、医者に「手術しかない」「歳のせいだからしょうがない、うまく付き合って行くしかない」などと言われていた方でも痛みを改善することができるようになりました。結果、多くの方から喜びの声を頂いています。

最後に・・・

世の中の多くの病院では「腰が痛い」と訴えに対して、とりあえずレントゲンやMRIを撮って「何番目の骨の間が狭いですね」「ヘルニア、脊柱管狭窄症、すべり症になってますね」「手術以外の治療方法はありません」「とりあえずお薬、ブロック注射しときましょうか」などと言われてしまっている方が本当にたくさんいらっしゃるのですが、これはとても危ないことですし、最短距離で回復することを邪魔します。

また、治療院へ行っても腰に電気やホットパックを当てたり、牽引したり、腰が痛いと言えばゴリゴリと腰を揉まれるだけ、逆にされすぎて痛くなったり、結果痛みは十分に改善せず、その場しのぎの治療を受けている方も多くいらっしゃいます。

中には、ちゃんと全体を診ている治療院もありますが、根本的にどこが悪くなっているのか、どのように治していくのかを伝えきれていなく、少し良くなったらメンテナンスという言葉を使い、利益の為に終わりの見えない通院を薦められることも少なくはありません。

そんな現状を目の当たりにしてきたからこそ、私は自分の施術を通し、病院や接骨院、その他治療院でその場しのぎの施術を受けてもなかなか改善しない方や、どこに行っても改善しない方を助けたい、本当の意味で治したい!と奮起し独立を決め、【治療院から卒業できる整体院 楽掌】を兵庫県川西市で開院しました。

もちろん私でも全ての患者様に対して改善できない痛みはありますので、より良い施術ができるよう、より多くの患者様を救えるよう、今現在も月に2回以上、全国の勉強会やセミナーに参加させていただいています。

正直、勉強代は相当きついです。生活をするのもギリギリです。

それでも私が学び続ける理由は、あなたの痛みを取るため!!ではありません。

どういうことかというと、あなたの痛みを取ることは大前提で、あなたに【整体院 楽掌】をきっかけに、痛みのためにできなくなって諦めてしまったこと、好きなこと、やってみたいことをやれるようになってほしい。笑顔で充実した毎日が送れるようになってほしい。

ただこの一心で、患者様のことを思い必死に毎日勉強しています。

あなたの痛みを治したいという想いはどこの治療院にも絶対に負けませんし、毎回毎回全力で施術させて頂いています。

体を良くするだけでなく、セルフケアの方法もお伝えさせていただくので、旅行先などで普段しないことをした時に出る突発的な痛みに対しても、場所や時間、人に左右されずにご自分で対応できるようになってほしいと思っております。

そして当院を笑顔で卒業してほしい。そういう方を増やし関わっていけることがこの仕事でのやりがいであり、私の使命であり志です。

患者様のお声に耳を傾け、目標に向かって並走し、精一杯サポートさせて頂きます。

どうぞよろしくお願い致します。

P.S. とても長い文章を最後まで読んでいただきまして、本当に有難う御座います。

あなたの体を良くできるきっかけがここから始まり、以後ご縁が繋がり、より良い人生を楽しめるよう願っております。

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